鬼レズはマッハで走るR

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タダのきちんとしたレズおばさん

 昨日の記事、「9月の豚汁 」で書いた「レズかどうかもはや疑わしい」って話ですが、そのへんちょっと掘ろうかと。

 「もう、恋愛とかどうでもいいし、性欲とか何それおいしいの?状態」だと言うと「もうレズじゃないじゃん!」とか言われることもあるのですが、逆にノンケのおばさんが「性欲ない!」と言ったら「異性愛者じゃないじゃん!」って言われるだろうか。おそらく言われないと思います。そんな風に個別のとがったエピソードがないと「異性愛」という大きな物語に組み込まれそうになるのですが、そうはイカのなんとかよ。

 政治的に正しいレズビアンとして異性愛社会に抗って生きてきて今があるのですからタダの更年期なんかで今さらノンケなんかになってたまるものですか。ワタシの日々の価値観、日常の判断のほんの微細なところまで「レズでありたい、レズであろう」とした若い日の決意の残留思念が宿っているのですよ。

 なので、性欲がほぼ消滅したワタシは「レズかどうか疑わしい」のではなくて、「きちんとしたレズおばさん」になりつつあるのです。炊いたご飯を小分けして冷凍したり、野菜を使いきるためにスープを作ったり、そんな日常のレズおばさんですよ。大体、死ぬまで女のケツ追っかけてたら命いくつあっても足りないわ。

(ごめん、今ちょっと嘘をつきました。追っかけるより追っかけられたい派です、ワタシ)

 と、「疑わしい」と言ったのがレズビアン当事者であったのが根の深いところで。ちょっとでも気を抜くと異性愛的価値観が忍び寄る。勝手にノンケに見なされるのは仕事先の人間関係だけでお腹いっぱいですよ!(ワタシ、仕事場ではカムアウトしてません)

 てなわけで、今のところの決意は「レズレズレズ! ワタシは死ぬまでレズビアンであることを全うする!」です。が、悩みとしては「どう生き、どう死ねばレズビアンであることを全うできるのだろうか」です。

 先行世代の薄いおばさんの悩みの一つとして「ロールモデルの不在」が挙げられますが、ワタシはわりと「ロールモデルの不在が人を鍛える」という言説に賛成してて、いろんなことをイチイチ自分で納得いくまで考え、検証したのは糧になったと思っている。それがレズビアンという存在の「困難さ」と言われるかもだけど、ワタシはコミュニティにデビューしたころの「主婦とオナベとフェミニストしかいない」と思えた時代に自分を問い直して生きてこれたのは「自分には」良かったなーと。思ってます。

 と、いきなり昔話が始まりましたが、これもチラリズムの一環ということで。(だまれ)