鬼レズはマッハで走るR

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性的指向と性的嗜好は違う!……のか?

 ワタシがこのブログを書こうと思った理由がふたつある。ひとつは「バッドフェミニスト」を読んで、「ワタシもこんなの書きたいなぁ」と思ったこと。もうひとつが「そこから? そこから説明しないといけないの!?」ということをいわゆる「LGBT」周辺でよく耳にするようになったこと。

 今回は後者のことで最近つくづく「それってどうなのよ」と思ったことについて書こうと思う。で、タイトル通りのことなのですが、「性的指向性的嗜好は違います!」とドヤ顔でロリータコンプレックスの人やBDSM愛好者を差別するゲイやレズビアンの存在があらわになってきているのが、ホントに嫌で嫌で。「違う!」とか、どこがどう違うのか言ってみ! と詰め寄りたくなるのを抑えて、「いやだー」とツイッターの隅でグチグチ言ってるわけです。

 が、結論から言えば、同じでもあるし違ってもいる。けっこうええ年した人でも「え、違うんじゃないの?」とか朗らかに言っているのでワタシなりに解説します。あくまで「ワタシなり」ですので、ご利用はローンと同じく計画的に。

 

 閑話休題。まず、前提として人の欲望そのものにはわけ隔ても貴賤もない。ただ欲望が「ある」だけだ。天然自然の状態では性的欲望は混沌としている。性的なものに価値基準の物差しがなければ「逸脱」自体もない。そのスケールでは指向も嗜好も違いはない。というより存在しえない。

 ただ、ヒトは社会的な生き物なので社会的な物差しがその欲望に当てられる。物差しがあたれば性の序列化が行われる。より正しく価値があるのは、同性愛よりも異性愛ポリガミー(ポリアモリー)よりモノガミー、BDSMよりもバニラ、異人種間よりも同人種間……。ありとあらゆる性的な欲望や行動に「規範」が設けられるが故に「逸脱」も発生する。それが人間社会。当然、人の決めることなので、その社会がいつどこなのかで「規範」は変わるし「逸脱」と見なされる内容も変わる。(一昔前は婚前交渉とかマジでアウト案件だったんですよ)

 と、ここまでは簡単な話。この物差しの中でも特にガッチリと大きいものが「異性愛規範」だ。ありとあらゆる「欲望」が異性愛のサブタイプやエピソードとして語られてしまう。ホラ、卑近な例ですが「レズAV」とか呼ばれるものに最後に男が出てきて単なる3Pになるとか、ノンケ相手にエロ話してても「挿入から離れろよ!」と言ってもいつまでも付けチンの話することあるじゃないですか。(ない?)

 異性愛の物語はあまりに強大なので本来対立軸であるはずの同性愛/異性愛という並立関係を他の性的な物語と同じように大きな物語のエピソードに取り込んでしまう。その「取り込み」に否(いな)を強く突き付けるロジックとして、「性指向と性嗜好は違う」というある意味での方便が生まれました。

 「性指向」として独立を果たした同性間のエロスや欲望は社会の大きな対立軸としてそれまで小さなエピソードであったものが大きな物語を揺るがす力を得るようになります。……そういう意味で「性的指向性的嗜好は違う」とワタシは解釈しています。

 という背景があるので、「性的指向と嗜好は違うぞ、ドヤァ」と差別しにかかっていくのを見ると、「そのエピソードも社会を揺るがす種子かもしれんのやで」と思うのと、どうしても差別したければ、「当事者間の力関係が不均衡である」とか「安全性に疑問が残る」とか言えばいいのにー、って思いますね。

 「ドヤァ!」もいいのですが、いわゆる「レズとホモ」(←あえてこの言葉)にも変態性の強い「嗜好」のある人いるじゃないですかー。あと、胸に手を当てたら、割合多くの人が「政治的に正しいセックス」だけしてると言えないと思いますよ。まあ、ワタシはセックス自体、もう数年してませんけどね!(きれいなオチ)