鬼レズはマッハで走るR

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異質なものとの共存を考える③

 前回は禁煙の波が大きくなっていくにつれて「自然権の行使が阻まれている!」と感じるだろう人の存在についてまで、を書いたと思う。これもタバコを時と場所をかまわず吸い続けてきたら当然持つ思いだろうなぁ、と。

 ただ、不満を持つ人の多くが疫学調査などで副流煙がいかに有害かとかの問題がすでに決定してしまっていることに目を背けたり、煙草を吸わない人が自分と対等に健康な体を持っている成人であるという前提しか持ってなかったりする。この辺踏まえてもらわないと話が先に進まないなと思っている。(場合によっては「禁煙ファシズムは他人の体への侵害である」とか転倒した価値をお持ちの方までいる。いや、あなたの煙がワタシの健康を侵害しているゴホよ)

 この辺、連結すると少々乱暴なんだけど「以前と同じく保毛田保毛男を笑いたい」という欲望とワタシにはあまり変わらないように感じてしまっている。とにかく、自分が「快」と感じることには1ミリも妥協したくない人たち。

 人間の本質は変わることにある、からその人間が運営する社会の価値観は当然変わっていく。し、社会はいやおうなしに変容していく。当然、アウトやセーフの判定も緩やかに変化していく。

 分煙が進んでいくことと「ホモキャラ」を笑いものにしないことは社会の隅で泣いていた人、不快だと思っていたけど声を出せなかった人たちを減らすことになるはずなのだけど、「社会の総体」を考えずに「自分の快楽原則を妨げられたくない」という「個人」の一念で生きる人の思いをすくい上げるのは相当難しい。

 いろんな社会背景のある人と共存していく、いこうとするのが社会に生きる大人の責務だとワタシは思うのだけど、そうは思わない人たちがそれなりの数、というかかなりの数いる。そういう考えにワタシは本質的に「異質なもの」を感じるのだけど、こういう思想とはどう共存していけばいいのか。

 「個人の快/不快」のみが思想や行動のスイッチの人とどう対峙すればよいのか、どう共存していけばよいのか。そんなことをここ数年来考え続けています。どっとはらい。(今回もオチはない)